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2016年09月08日
絵を描くということ-序章
『いやぁ、歌ってのはあんまり歌詞はその、どうだっていいんですよね。』
ゼロソーで公演された「チューウィンガム」の冒頭部。
数年前この話をマンガ化する際この台本を何十回も読んだ。たった数回ではこの難しい台本を全く理解できなかったから。
鼻歌を歌いながら最初に登場した椎高さんは「歌詞はどうだっていいんですよね。」という。
歌に歌詞って大事じゃん!?って思ってここの解釈がすごい難しかった。作者は何を伝えたかったのだろうか。
この部分はマンガでは話を短くする都合上、丸々カットしている……と言ったらウソなのかな。正直言って理解できて無かったから逃げでカットしたのかも知れない。
でも冒頭に作者は持ってきていた。大事ではないものは持ってこないはずだとそれだけはわかっていた。
ここ解釈がずっと引っかかってて私の宿題として残っていたんです。
ツイッターなどではずっと告知しておりますが、ただいま私1回目の絶頂期ということで現時点での本気の油絵の製作に取り掛かっております。そのモデルさんとの契約を済ませ、いわゆる本番前の試作を数点描いているわけですが、ご存知でしょうか?フェルメールの『青いターバンの少女』という作品。
世界第二位の絵画と言えば、あのヒットラーまで魅了させたこの絵。
もちろん学生時代から私も好きで、過去にこの絵の模写も数回やっております。これをイメージした自分の作品もあります。
クッソ下手くそですけどそのイメージしたもの。
ねヘッタクソでしょw。でもずっと捨てられなかった。油絵は学生時代のこれを描いたのが最後で近年再び描くまで15年空いた。
この頃自分でも暗黒期だったもんなって見て思う。当時は印象派が大好きでその他の絵は明るい色使いなのにこの絵だけ暗い。絵が上手い下手じゃなくてこの絵から自分でも当時の自分の感情を読み取ってて伝わるから下手クソなのに捨てれない。
今回本気絵を描く前の試作でこの構図久々挑戦するかと思って描いてみた。
そして出来上がった絵を昨日から眺めている。
ふと気が付いた。フェルメールの青いターバンの少女の解釈を間違っていたことに。
偉大な画家が描いたこの背景の黒は……ここの解釈は伏せます。自分だけのものにしたいっていうのとそれは違うという批判を避けるため。
同じ構図で時を経て描いた僕にしか受け取れないフェルメールのメッセージ。
気が付くと背景の黒はもう黒に見えなくなっていた。
ここ数年毎日毎日ひたすら絵を描いてきた僕は、最下層ながらようやく画家の目を持つことが出来たと実感したりしてる。
そこで冒頭に戻る。
『いやぁ、歌ってのはあんまり歌詞はその、どうだっていいんですよね。』
僕はこれを『目に見えているものにとらわれるな』との解釈、答えだと思った。
『絵を描くこと』という絵画人生の大テーマはいずれブログで書きたいテーマでした。今回はその前の序章。
高校の美術の教科書は今でも僕のバイブルとなっており、道に迷うときに読み直して来た。教科書というのは当たり前の話絵画界の大先生達がたくさん集まってまとめられたもので、学問として絵画を完全に理解した人により作られている。
その1ページ目には一言こう書かれている。
『見るということは考えることと同じ』
高校生の頃わからなかったこの言葉は今は痛いほどわかる。
わかりやすく言うと『見るということは考えることと同じ(でなければならない)』かな。
普段何気なくぼーっと見ている景色は、見ている内に入らない。見てその対象の事を考えないと見ているとは言えない。
例:ここに飲み物の入ったコップがあるとする。
じゃあ今見たコップを描いてくださいっていきなり言われたら以前の僕は、普通に見たであろうコップを描いていた。
でもこれでは絶対描けたと思っても本当は描けてないんですよ。
そのコップ一つとってみても。
素材は?色は?大きさは?中に何が入ってる?中の液体の色は?どこに置いてある?感触は?味は?匂いは?光はどこからあたってた?回りにはコップしか無かった?気温は?季節は?場所地域は?もっと言うとそのコップはどこで作られた?作られた地域は?作者は?作者の出身地は?なぜその形に作った?などなど知らなければいけないことは枚挙に暇がない。
そして今現在の自分の感情で見えているものは違ってくる。
これだけの情報を知って描くものと、そうでないものの出来上がった作品は一見同じように見えても分かる人には違って見え、もう雲泥の差があるのはここまで読んでくださった方は理解しているはず。
ここまでやってやっと絵画的に言う『見る』という動作になるということだ。でもさ、これって全ての人に当てはまる事じゃない?
政治だってニュースだってスポーツだってさ。見たまま何も考えないで受け取ってる人多くない?
ゼロソー作家が劇中で言わせている『目に見えているものにとらわれるな』ということとは相反しているように思われるかも知れませんが、もっとはっきり言うと『目に見えているその先にある本当の姿をを見よ』ということではないだろうか。この解釈にたどり着いた。ゼロソーせんせー!これで宿題提出させてもらってもよろしいでしょうか?あはは。
これに気がついて目から鱗がポロポロ落ちまくってますわ。視界が今まで見ていた景色と全く違う。すこぶる良好。
試作の状態で自身最高傑作更新、会心の出来。絶頂期のタイミングに今回フェルメールと同じ構図で描かせてもらったモデルの方とそして偉大なるフェルメールに大感謝。
ゼロソーで公演された「チューウィンガム」の冒頭部。
数年前この話をマンガ化する際この台本を何十回も読んだ。たった数回ではこの難しい台本を全く理解できなかったから。
鼻歌を歌いながら最初に登場した椎高さんは「歌詞はどうだっていいんですよね。」という。
歌に歌詞って大事じゃん!?って思ってここの解釈がすごい難しかった。作者は何を伝えたかったのだろうか。
この部分はマンガでは話を短くする都合上、丸々カットしている……と言ったらウソなのかな。正直言って理解できて無かったから逃げでカットしたのかも知れない。
でも冒頭に作者は持ってきていた。大事ではないものは持ってこないはずだとそれだけはわかっていた。
ここ解釈がずっと引っかかってて私の宿題として残っていたんです。
ツイッターなどではずっと告知しておりますが、ただいま私1回目の絶頂期ということで現時点での本気の油絵の製作に取り掛かっております。そのモデルさんとの契約を済ませ、いわゆる本番前の試作を数点描いているわけですが、ご存知でしょうか?フェルメールの『青いターバンの少女』という作品。
世界第二位の絵画と言えば、あのヒットラーまで魅了させたこの絵。
もちろん学生時代から私も好きで、過去にこの絵の模写も数回やっております。これをイメージした自分の作品もあります。
クッソ下手くそですけどそのイメージしたもの。
ねヘッタクソでしょw。でもずっと捨てられなかった。油絵は学生時代のこれを描いたのが最後で近年再び描くまで15年空いた。
この頃自分でも暗黒期だったもんなって見て思う。当時は印象派が大好きでその他の絵は明るい色使いなのにこの絵だけ暗い。絵が上手い下手じゃなくてこの絵から自分でも当時の自分の感情を読み取ってて伝わるから下手クソなのに捨てれない。
今回本気絵を描く前の試作でこの構図久々挑戦するかと思って描いてみた。
そして出来上がった絵を昨日から眺めている。
ふと気が付いた。フェルメールの青いターバンの少女の解釈を間違っていたことに。
偉大な画家が描いたこの背景の黒は……ここの解釈は伏せます。自分だけのものにしたいっていうのとそれは違うという批判を避けるため。
同じ構図で時を経て描いた僕にしか受け取れないフェルメールのメッセージ。
気が付くと背景の黒はもう黒に見えなくなっていた。
ここ数年毎日毎日ひたすら絵を描いてきた僕は、最下層ながらようやく画家の目を持つことが出来たと実感したりしてる。
そこで冒頭に戻る。
『いやぁ、歌ってのはあんまり歌詞はその、どうだっていいんですよね。』
僕はこれを『目に見えているものにとらわれるな』との解釈、答えだと思った。
『絵を描くこと』という絵画人生の大テーマはいずれブログで書きたいテーマでした。今回はその前の序章。
高校の美術の教科書は今でも僕のバイブルとなっており、道に迷うときに読み直して来た。教科書というのは当たり前の話絵画界の大先生達がたくさん集まってまとめられたもので、学問として絵画を完全に理解した人により作られている。
その1ページ目には一言こう書かれている。
『見るということは考えることと同じ』
高校生の頃わからなかったこの言葉は今は痛いほどわかる。
わかりやすく言うと『見るということは考えることと同じ(でなければならない)』かな。
普段何気なくぼーっと見ている景色は、見ている内に入らない。見てその対象の事を考えないと見ているとは言えない。
例:ここに飲み物の入ったコップがあるとする。
じゃあ今見たコップを描いてくださいっていきなり言われたら以前の僕は、普通に見たであろうコップを描いていた。
でもこれでは絶対描けたと思っても本当は描けてないんですよ。
そのコップ一つとってみても。
素材は?色は?大きさは?中に何が入ってる?中の液体の色は?どこに置いてある?感触は?味は?匂いは?光はどこからあたってた?回りにはコップしか無かった?気温は?季節は?場所地域は?もっと言うとそのコップはどこで作られた?作られた地域は?作者は?作者の出身地は?なぜその形に作った?などなど知らなければいけないことは枚挙に暇がない。
そして今現在の自分の感情で見えているものは違ってくる。
これだけの情報を知って描くものと、そうでないものの出来上がった作品は一見同じように見えても分かる人には違って見え、もう雲泥の差があるのはここまで読んでくださった方は理解しているはず。
ここまでやってやっと絵画的に言う『見る』という動作になるということだ。でもさ、これって全ての人に当てはまる事じゃない?
政治だってニュースだってスポーツだってさ。見たまま何も考えないで受け取ってる人多くない?
ゼロソー作家が劇中で言わせている『目に見えているものにとらわれるな』ということとは相反しているように思われるかも知れませんが、もっとはっきり言うと『目に見えているその先にある本当の姿をを見よ』ということではないだろうか。この解釈にたどり着いた。ゼロソーせんせー!これで宿題提出させてもらってもよろしいでしょうか?あはは。
これに気がついて目から鱗がポロポロ落ちまくってますわ。視界が今まで見ていた景色と全く違う。すこぶる良好。
試作の状態で自身最高傑作更新、会心の出来。絶頂期のタイミングに今回フェルメールと同じ構図で描かせてもらったモデルの方とそして偉大なるフェルメールに大感謝。
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